例えば、単純な計算を知らなかったり。
 その癖難しい理論を並べてみたり。
 人が、今欲しいと思う言葉を言ってくれたり。
 澄んだ音が好きだったり。

<ハーモニカ>
 
 息を吸う。
 音が出る。
 息を吐く。
 音が出る。
 吸うときと吐くときでは音が違う。
「……難しいな、ハーモニカ」
 誰にともなく呟いて、俺はジーンから譲り受けたハーモニカ相手に苦戦していた。
 ……正確に言うと、『飽きらかした』ハーモニカ。
 テーブルの上に置いてあったそれを、ジーンの許可を得て、譲り受けたもの。
 そして俺は今、それで彼女に何か弾いてやろうと思う。
 この場合は吹くか? まぁいいけど。
 だから、こうやって今密かに練習している。
 彼女は、澄んだ音が好きだ。
 ヴァイオリンやピアノ、オルゴールなんかが好きだと言うことを、俺は最近知った。
 歌は、入っていないほうが好きらしい。
 小さく聞こえてくるような、そんな音が好きらしい。
 彼女の好みは――面白い。
 面と向かって言えば蹴りか拳が飛んでくるからそれは、口に出せないが。
 それだけじゃない。
 例えば、単純な数式を知らなかったり。
 例えば、子供みたいなものが意外と好きだったり。
 例えば、誰よりも責任感が強かったり。
 例えば。
「……何をしている」
「っわぁお」
 頭上から聞こえた声に、俺は思わず間抜けな声を上げてしまった。
 そこにいたのは俺の想い人である、綺麗な女性。
 ミスト。
「びっくりしたぁ」
「それはこっちの台詞だな。一服しに来たら音がするのだから」
 そう言って、懐からライターと煙草を取り出す。
 なるべく吸わないで欲しいと思うのだけれども、ストレス発散には丁度いいのかもしれない。
 あんなところにいたら、俺はすぐ死んでしまうだろうから。
「ハーモニカ、吹くのか?」
「ああ、吹くって言うんだハーモニカ」
「……そうだろう、普通」
 ミストは呆れたように呟いて、咥えた煙草に火をつけた。
 ここは彼女のお気に入りの場所で、滅多に僧達には見つからないらしい。
 そもそも奴らは、ミストが部屋を抜け出したことにさえ気づいていないときがある。
 全く持って、能無しな奴らだ。
「なぁ」
「何?」
「何か、吹け」
 ……突然そういわれましても。
 思ったことが顔に出ていたのか、ミストは小さく笑った。
「無理か? ならいいが」
「吹けないことはないだろうけど……下手だよ、きっと」
「かまわない」
 そう言って、更に笑う。
 その笑顔は反則的だと思う。
 断れないじゃんか。
「それでは、拙いながらも」
 静かに息を吸って、それから吐く。
 思ったよりも綺麗に音が出た。
 煙草の紫煙がまっすぐ立ち昇る。
 それを横目で見ながら、俺は昔の人が作った『歌』を吹いた。
 曲名は、忘れた。
 ただ昔、ミストの父親が口ずさんでいた曲で。
 ミストは、目を閉じていた。
「っはぁ」
 一曲吹き終わったとき、俺の息は結構上がっていた。
 意外と肺活量を使うものだった。
 難しい。
「……下手くそ」
「だからいったじゃん。下手だって」
「でも、懐かしかった」
 ……あのさ、ミスト。
 そうやって儚げに笑ってさ、そんなこと言われると。
 どうしようもなくなるじゃん、俺。
「もっと上手くなるよ。多分」
「多分って何だよ……馬鹿」
「まぁ頑張るけどさ。上手くなったら何か商品頂戴」
「……考えておく」
 煙草の火を靴の裏で揉み消し、彼女は静かに立ち上がる。
 肩にかかる髪の毛が、小さく揺れた。
「……ありがとな」
「っ!」
 小さく呟かれた一言で、俺の心拍数は一気に跳ね上がる。
 階段を下りていくミストの背中を見ながら、俺は。
 次はもっと上手く吹けるようになろうと、決心した。

 あなたのその笑顔が見たいから。
 俺の前だけでも、そうやって自然に笑って欲しいから。
 俺は、なんでもするよ。

           あとがき。
             ハーモニカというと、某旅人しか思いつかない貧相な脳味噌。
             吹くのは意外と難しいらしいです。
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