<菜の花> ぴしゃんと、水音がした。 右手に持ったカンテラを掲げながら、緑髪の少年は小さく溜息をつく。 諸々の事情で地下水道を通らなければならなかったのだが、これほどだとは思っていなかった。 「あーあ……」 呟いた声が何度も反響する。 最初のうちは、期待に胸を躍らせていた。 過去の遺産である地下水道。 美しい建造物で溢れているのだと聞いたのだが。 「実際はこんなもんかぁ」 辺りは、崩れた瓦礫で覆い尽くされた。 昔は人が住んでいたのだろう。 食器やテーブルなど、生活用品の姿も見て取れる。 ただ、その全てが破壊されていた。 そのままの姿で崩れ落ちた日常。 それが、ここに在る。 「……言の葉使いの歴史なんて」 恐らく、ここも。 その確信が少年にはあった。 「……おや、珍しい」 不意に声がする。 思わず『盟約』を口に出しかけ、少年は飲み込んだ。 そこに居たのは、老婆だった。 「アンタみたいな子供がねぇ、迷子かい?」 皺枯れているが、ハッキリした口調で老婆は尋ねる。 少し考えてから、少年は首を振った。 「違う」 「そうかぇ? こんな廃墟を通るなんて物好きがいたもんだねぇ」 「……ここは?」 抑揚の無い声で少年は尋ねる。 老婆は二、三度引きつった笑みを浮かべて、それから答えた。 言の葉の中に思いを込めて。 「昔は水脈を管理するために村があったのさ。それも十年前に壊されてしまったけどねぇ」 「……『言の葉使い』に?」 「あぁ……酷かった。口元に笑みを浮かべている奴もいたよ……子供だった」 最後の一言をぽつりと呟き、老婆は踵を返す。 「ついておいで――出口はこっちだよ」 酷い有様だった。 思わず目を背けそうになって、少年は慌てて前を向いた。 壊された、家。 壊された、物。 壊された、日常。 未だここに留まり続ける『過去』。 「この道を真っ直ぐ進めば第三十五番線に出るはずさ――十年前のね」 「十年間、一度も外に?」 「出ていないよ。出る理由も無いじゃないか」 老婆はその暗い色の瞳で少年を見る。 「もう誰もいないんだから」 すうっと、その足が消える。 老婆はこの場に縫い付けられた思念だった。 おそらく、十年前に。 「……死んでたんだね」 「皆と一緒にね……ただ、息子が帰ってこないんだ」 「ずっと?」 「人形師になるって言ってね出て行ったきり――もう十五年になるよ」 「だから、ここにいるの?」 「ああ」 老婆は、老婆の霊は頷く。 「あの子が帰ってきたとき、誰もいないと可哀想だろう」 少年は視線をそらす。 先代の事とはいえ、自分もその血を引いていたから。 「……あの、菜の花は?」 少年が指差した先には、枯れ果てた菜の花がある。 風化することも無く、ただ、在り続ける。 「子供たちが植えたのさ……去年枯れちまったがね」 「……水脈はまだ生きてる……」 少しの間諮詢してから、少年は息を吸った。 静かに、長く。 「我が名は『浅黄』紫苑、古の盟約に基いて汝等を顕現させるものなり。 我が言の葉に宿りし者よ、我が意を汲み取りそれを顕現させよ。 眠る花、今はただ眠る花よ、汝はまだ生きている。まだ存在を許されている。 わが名の下に再び――咲け(キャン・ブルーミング)」 フィルムの巻き戻しのように、菜の花がその色彩を取り戻していく。 数秒後には、季節外れの菜の花が綺麗に咲いていた。 老婆が、目を見開く。 「――言の葉使い……だったんだね」 「……」 「出て行ってくれ……皆アンタを嫌ってる」 「……死者の眠りを妨げる気は無いよ」 小さく肩を竦めて、少年は出口へと向かう。 その背中に老婆の声が掛かったのは次の瞬間だった。 「ありがとうよ」 振り返りかけて、少年は止めた。 そのまま、出口へと向かった。 |
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あとがき。 菜の花が咲くのは二月中旬から。 日の無いところでは花は咲けない。 |
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