<名前>

 ああ、邪魔していると、
 軽く右手を上げて、髪の長い女は言った。
 正直、空は面食らってしまった。
 扉を閉める。
 その扉には、先程まで鍵がかかっていた。
「……」
「陸人はどうした?」
「…………」
 空は、ただ黙っていた。
 それを見た女は薄笑いを浮かべて首を傾げる。
 紅と、濃紺の目が俺を見る。
 視線をそらす。
「言葉は通じているのだろう? それとも、今私は中国語を話しているのか?」
「……陸人は、遅れる」
 喉からひねり出した言葉は、驚くほど掠れていた。
「そうか」
 必死に出した声は、ごくごく普通の声に飲み込まれた。
 黒の合間から見える紅と濃紺。
 嫌い、なのではない。
 苦手、なのだ。
 この白い服を着た女性――海神が。
「ホムンクルス達はどうしている」
「……ホムンクルスじゃない」
 空は、顔を上げる。
 真っ直ぐに、海神を見据えて。
「一也と、唯だ」
「……ああ」
 そうだな、と。
 海神は笑った。
 嫌な笑い方だった。
 背中に、扉が当たる。
 窓から差し込むオレンジの光が、事務所の中にあふれていた。
「……随分と皮肉な名前なものだ」
「は」
「考えたことが無いのか?」
 空に向けられるのはあからさまな嘲笑。
 続ける女の声音から、嘲り以外の感情は読み取れない。
「名前の意味について」
「……集団の中で、個を表す記号だろう」
 海神を殆ど睨みながら空は言う。
 また紅と濃紺の女は笑った。
 今度は、愉快そうに。
「確かにそういった見方もあるだろう。けれどもそれは、一般論だ」
「じゃあ何だ」
「分からないのか? アルビノ」
「……俺はそんな名前じゃない」
「構わない。何故なら私はお前の名前を知る必要など無いのだから。
 お前を顕すとき、私はただ『アルビノ』と呼べばいい。
 ――ああ、これもお前の言った名前の概念に当てはまるな」
「……」
 紅だけが、笑った。
「話を戻そう。名前というのは他人に自分を証明すると同時に、自分自身も証明するのだよ」
「……は?」
「お前は本当に物事を理解しないな。
 偏った一般論ばかり信じていると、いつか足元をすくわれるぞ?
 そうだ、名前の意味についてだったな」
 大袈裟に肩を動かす。
 何が言いたいのか、空にはさっぱり分からなかった。
「人は――人には限らないが――他人による認識で自分を証明する。
 その時に呼ばれる名前――陸人であれば、『陸人』という名前――それが自分を証明している。
 証明するもの、証明できるものに縋ろうとするのは、人間の性だろう?」
 胸元まで伸びた髪が揺れ、紅と濃紺が露になる。
 見れば見るほど、それは、異質だった。
「ホムンクルス達の名前の意味について考えてみろ。
 『唯』と『一也』、どちらも『唯一つの』という意味だ。
 どちらが考えたのかは知らないが――まぁ、多分拾六号だろうがな――皮肉な名前だ」
「……何、を、言っている」
「まだ分からないのか? 奴等は製造番号では無くそう呼ばれることで自己を証明している、と言っているのだ。
 唯と一也、つまり自分たちは一人しかいない、そう言った意味合いでな」
 言われたことの半分も、空は理解できていなかった。
 けれども一つだけ分かったことは、
「っ……」
 海神が、あの二人を――唯と一也を――人として見ていないということ。
 奥歯が音を立てた。
 階段を上る足音が聞こえた。
「私はそろそろお暇しよう。陸人に、たまには店に顔を出せと伝えておけ」
「何」
 何言ってやがる。
 言おうとした言葉は半分もいえなかった。
「あれ、ワトソン君?」
 後ろから聞こえてきた声に、反射的に振り返る。
 高い位置からこちらを見下ろす、鳶色と目が合った。
「こんなとこで、なにしてるの?」
 心底不思議そうに陸人は聞く。
 見れば分かるだろう、そう思った。
 けれども口には出さなかった。
「!?」
 視界の端のソファーに、女の姿は無かったから。
 信じられない光景に、空は言葉を忘れた。
 そんな空に、陸人は首を傾げる。
「誰か、来てた?」
 無言で頷く。
 少し考えてから、陸人は口を開いた。
「ハイ、シェン?」
 もう一度頷く。
 口を開いたはいいが、舌が固まりなかなか言葉を紡げなかった。
「はい、しぇん、が……たまには、店に……顔を、だせと」
「それだけ?」
 三度、頷く。
 小さく笑って陸人は空の頭に手を置いた。
 静かに、頭をなでる。
「……お疲れ様。ご飯にしようか」
 コロッケ、買ってきたから。
 そう言って笑う。
 その笑顔に、肩の力が抜けた。
「今、準備する。一也と唯は?」
「もう食べさせてきた」
 訊ねると、陸人は事務所のブラインドを下ろしながら答えた。
 その向こうに、陽光は無い。  
 漆黒の闇があるだけだ。
 頭を軽く振って、空は給湯室に向かった。

『――名前というのは他人に自分を証明すると同時に、自分自身も証明するのだよ』

 女の淡々とした声が、耳から消えなかった。

           あとがき。
             実はこれ、一回データ壊れて消えちゃったんです。
             FD探したらメモ帳で書いたデータが残ってたから復元できたけど。
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