<葡萄の葉> 扉を開ければ、目の前には血の海が広がっていた。 遅れてくる、五感の全てがクリアになっていく感覚。 いつものことだから、そう、大したことでもない。 そう割り切って、俺は血の海の中に倒れている奴に声をかけた。 「エルフ」 血の海に倒れている人間――エルフは動かない。 海の中に、剃刀が見えた。 左手首には、また、新しい傷が増えていた。 溜息が出る。 血の海に足を踏み込めば、ぬめった感覚が気持ち悪かった。 片膝をついて漂う長い髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。 嫌な予感が頭をよぎった。でも小さく眉間にしわが寄ったのでそれはすぐに消えた。 「赤血球って一回なくなると元に戻るまで時間かかるって知ってんの?」 「…………の、いん?」 おいおい、発音が怪しいぞ? 呂律が回りきっていない。 「よぉ」 そうしている間にも手首からは血が流れ続けている。 「いらっしゃい」 本人は笑ったつもりなのだろう、しかし、血に塗れたそれは不気味以外の何者でもなかった。 背中に手を回して体を抱き上げる。 小柄な体を血の海から回収し、椅子に座らせる。 血の気を失った顔を手で拭ってやれば、くすぐったそうに顔を逸らした。 ベッドの下に押し込まれた救急箱を引っ張り出して、止血を始める。 きつめに巻いていく包帯が、徐々に、赤く染まる。 表情を変えない少女。 「のいん」 「あ?」 「止血、じょうずになったね」 「……誰かの、おかげでな」 皮肉を込めて呟いても、何も表情は変わらない。 確かに、止血は上手くなっただろう。 もっとも――そんな物上手くなっても嬉しくはないが。 「んで?」 「なに?」 「今回の原因は?」 半眼で訊ねる。 少し考えてから、エルフは首を傾げるだけだった。 結局は答えなかった。 部屋の中に視線を走らせれば、小さなテーブルの上に錠剤が散乱していた。 今までに手を出したどの錠剤とも違う、それ。 直感的に理解する。 「……これは、何?」 声が引きつっていた。 エルフの表情は変わらなかった。 「何か、って聞いてんだけど」 「葡萄の葉っていうの。それ」 「葡萄の葉?」 「向上精神薬の一種でね。フュンフに頼んで買ってきてもらったの」 あのちぐはぐ野郎、ロリコンの気でもあるのか? いや、今はそんなこと気にしている場合じゃない。 何てモノ買ってきてやがんだ、あの阿呆は。 俺がそんなことを考えている間に、エルフはまた言葉を紡ぐ。 「いまねぇ、物資の足りない巷で流行ってるんだって。皆落ち込んでるんだねぇ」 何時になく上機嫌で――何時になく、饒舌だった。 「それで?」 「試しに使ってみたの。でもね、あんまり変わらなかったの。 そしたらね、嫌なこと思い出しちゃった。私は脳が機械だから、そんな薬効かないんだ」 「……だからかよ」 無言。 表情を変えないエルフ。 無音が耳に痛かった。 「だから、腕切ったのか?」 言葉に余裕がないのが自分でも分かった。 そうだよ、と。 こちらを見上げて、エルフは言った。 「ねぇのいん。私って何なのかなぁ。機械だから、薬は効かないんだ。 でもさ、でも、血はまだ赤いんだよ? 切ったらいっぱいいっぱい血が出るんだよ? 血が赤いのは人間だよ……薬効かないのは機械だよ……私は何なのかな? 機械なのかな?」 「……」 「私は何なの?」 両手をこちらに伸ばす。 縋るように。 助けを求めるように。 だけども俺は、その手を取らなかった。 机の上に散乱した錠剤を全て手の中に取る。 「のいん?」 怪訝そうに訊ねるエルフ。 良く見えるように、錠剤を握った右手を掲げる。 その右手に、あらんかぎりの力を込めて。 「阿呆」 ふざけた錠剤を握りつぶした。 エルフの目が見開かれる。 「こんな物に頼るな」 「……のいん?」 「テメェが何か? 決まってんだろ? お前はお前だ」 「…………違うよ。私が聞きたいのは、そんなことじゃない」 「人か機械か? どっちもだろうがよ」 近寄って、血に染まった軍服を脱がしてやる。 鎖骨の辺りと、目尻と、それから額に、良く見なければ分からない程度の手術跡がある。 包帯を巻いた下には、幾つもの傷跡がある。 傷だらけの少女。 彼女に見えている世界は――どれだけ、冷たいのだろう。 「……答えになっていないよ、のいん」 「答えてやるつもりねぇもん。答えて欲しいならあいつに聞け」 あいつ――平和主義で、戦争が大嫌いで俺を作り出した主人格――なら。 こいつの望むような答えを。 今一番欲しい言葉をだしてやれんだろう。 でも、俺はあいつじゃない。 あいつではあるが、あいつと同じ考え方など、できやしない。 俺に出来るのは。 「……あーもったいね。また髪の毛血まみれじゃねぇか」 「構わないよ」 「俺が構う。俺、お前のカラダ大好きだもん」 「えっち」 「えっちで結構」 不器用に、口の端だけを緩ませて笑うエルフ。 他の奴等の前では、滅多に笑わない少女。 俺の前だけで、その、微かな笑みを見せてくれることを、俺は知っている。 俺が。 今、ここにいる、俺が。 「あまり腕切るなよ。今だってあいつ、現実逃避して俺が出てんじゃねぇか」 「……逃げるのはよくないよ?」 「だったらあいつに言ってやれ。『逃げないで現実見たらどう?』ってな」 「でも、それ言ったら、またのいんが出るんでしょ?」 「多分な」 「意味無いじゃない」 また、少しだけ笑う。 もし彼女が笑顔で、本当に笑顔で笑ってくれたら。 悲しいときに腕を切るのではなく、大声で泣いてくれたら。 どれだけ、楽なのだろう。 俺にとっても、エルフにとっても。 「かもな」 肩を竦ませれば、少しだけ肩を震わせた。 指の間から、粉々になった薬が床に落ちて行った。 |
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あとがき。 ノインとエルフ、本邦初公開。 ノインみたいな性格の人はとても書きやすいです。。 |
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