<踏切> 木の軋む音で目が覚めた。 体を起こすと、それに付随して布団がずり落ちる。 外は月が出ているらしく、障子越しに淡い光が差し込んできている。 その障子に、人影が映っていた。 ゆっくりとその人影は移動する。 きし、き、きし、きと、変拍子の悲鳴を縁側が上げる。 由良は、その足音の主を知っていた。 「かかさま」 きし、き、きし、き。 変拍子が遠ざかり、障子に影が映らなくなる。 それから、由良は急いで立ち上がる。 勢いよく障子を開けすぎて、それが静寂を突き破った。 やはり月が出ていた。満月だった。 春先ではあるが、まだ夜は寒い。 緑に色づく植物が、小さく小さく揺れていた。 縁側はコの字に、井戸を囲むような形になっている。 由良は急いで辺りを見回す。 真っ白い服を着た髪の長い女性が、きし、きと音を立てて歩いていた。 その背を追いかける。 とたとたと縁側を足が叩いた。 小走りに追いかけているというのに、由良は彼女に追いつくことが出来ない。 「っかかさま」 名前を呼べども、振り返らない。 月が翳った。 「母様!」 振り返って。 こっちを見て。 名前を呼んで。 そんな期待を込めて名前を飛んだ。 けれども、やっぱり、彼女は振り返らない。 『何故(なにゆえ)汝は彼(か)を追うのかえ?』 代わりに、そんな低い声が響いた。 くぐもった、子供と老人、嘲笑と憐憫が同居した声。 母親は足を止めない。 由良は足を止める。 目の前に、現れたのは黒字に葛(かずら)の着物を着た、狐面の男だった。 白地に赤で模様の入った狐面、その向こうの目が細められる。 ぞくり、と背筋が凍るのを由良は感じた。 「追えどもあれは戻らぬぞ?」 背の高い男だった。 茶色い髪が、風も無いのに小さく揺れた。 「吾(われ)にとってあれは連れ行くべきものだが、汝は違う」 「母様を何処に連れて行こうというのだ」 「ほう、母とな」 嘲笑が強くなる。 くつくつと狐面の男は笑う。 「汝はまだあれを母と呼ぶか」 そこでようやく、母親は足を止めた。 ゆっくり振り返る。 黒髪が宙に円弧を描く。 白い着物に、いくつも黒ずんだ紅が落ちていた。 顔の左半分が陥没した、若い女性。 右半分だけは元の美貌と留めているので、その落差は大きい。 「死人をまだ母と呼ぶか」 「っ……」 喉の奥で、由良は悲鳴を上げた。 笑う口の端から血が落ちる。 落ちた顔からは蟲が覗く。 浮かべる笑みは、娼婦のようだった。 湧き上がる嫌悪を、由良は抑えることが出来ない。 あれが美しく、自慢だった母親なのか、と。 「あれは最早何時の母ではない。 黄泉に属するものなのだ。土に帰すべきものなのだ。 されとて汝は母と呼ぶ。汝は死人より生まれしものか」 「っ……なんでっ……貴殿が母様をあんな姿にしたのかっ!?」 由良は問う。 由良は叫ぶ。 静かな夜にその声は大きく響く。 けれども、男は静かに言った。 「あれを殺ししは汝が父よ。吾は殺すものではない――連れ行くものだ」 「母様と連れて行くというのか」 「それが吾が使命なり」 「何処へ連れて行くというのか」 「愚問であろう。死者は黄泉にしか行けまじ」 「母様を死者と呼ぶか。では何故、母様は今動いているというのだ。 母様は笑っているというのだ!」 床を蹴り、由良は母親に近付こうとする。 男は腕を伸ばし、それを制した。 「それ以上踏み入ってはならぬ。ここから先は生者の領域に非(あら)ず」 「っでは貴殿は何だというのか! 母様を連れて行くのは黄泉であろう!? 私がいるのは黄泉ではない! どちらにも属する貴殿は一体なんなのだ!?」 「……吾は、吾等は、境界だ」 ぽつりと呟かれた言葉には、嘲笑も憐憫も含まれてはいなかった。 苦々しげに呟かれた言葉。 狐面の向こうの目が、伏せられた。 「吾の仕事は、死者を連れ行くことだ。生者を連れ行くことではない。 ……帰り給え。床に就き、目を閉じ、今宵のことは夢とするのだ」 その言葉に、由良は頭を振った。 男の腕にしがみつき、手を伸ばす。 「ではこの腕も夢だと、貴殿は言うのか? この感情も夢だというのか!?」 「……」 「母様を連れ行かないでっ……」 自分の着物に染み込んでいく涙。 男は手を伸ばして、由良の頭を撫でた。 「……できぬ相談だ」 「ッ何故に」 「あれは死者だ。死んでしまったのだ。 追ってはならぬ。名を呼んではならぬ。 黄泉比良坂(よもつひらさか)を下ってはならぬ。千引きの岩(ちびきのいわ)を越えてはならぬ。」 「何故に!!」 「……追えば、呼べば、彼は留まり続ける。 下れば、越えれば、汝も死者となり給(たも)う。吾は連れ行くことが仕事だが、殺すことが仕事では、ない」 すっと身を引き、男は踵を返した。 縁側を歩いているが、足音は無い。 母親と並び、もう一度由良を見る。 男が、笑ったような気が、した。 目を開けるとそこは、見慣れた自分の部屋だった。 畳も、天井も、布団も何も変わっていない。 障子の向こうで、さわさわと葉擦れの音が聞こえている。 障子を開ける。 何も変わらない中庭。 ただ、縁側に転々と。 赤黒く固まった血が落ちていた。 |
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あとがき。 黄泉比良坂→黄泉の国に続くという坂。 千引きの岩→黄泉の国の入り口を塞ぐ岩。 日本製ホラー映画は駄目なくせに、日本製怪談は望んで書くというハナシ。 |
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