海というものは死の象徴だ。 何時から海は生命を生み出さなくなったのだろう。 <熱海> 寄せては返す波の音を聞き、六嘉(ろっか)クロムはコーヒーを片手に溜息をついた。 読みかけだった本にしおりを挟み、立ち上がる。 「ショーコ」 「はーい、なにクロちゃん?」 扉一つ隔てた向こう、キッチンにいた妙齢の女性が振り返る。 漆黒の髪に同色の瞳。 東方の血を色濃く告いでいることは明らかだった。 「何か軽くつまめるものをくれ。腹が減った」 「うん、サンドイッチなんかどう?」 「ああ、それでいい」 「りょーかいっ」 年に似合わない幼い動作で敬礼をし、ショーコ――翔子はナイフを取り出す。 それを見ながら、クロムはぐっと背伸びをした。 長い白衣は彼の体に合わず、裾が地面を吹き掃除している。 十三歳の彼に、大人用の白衣は大きすぎるのだ。 「具、何にしようか」 「ジャム。ストロベリーとオレンジ、それからブルーベリーので」 「うん、わかったよ」 にこにこにこにこ――と、笑いながら話す翔子。 年の割りに幼い彼女だが、家事は万能。 こうして毎日せっせと、十三歳にして独立したクロムの世話を焼いている。 「そう言えばね、さっき買い物に行ったとき、郵便局から小包受け取ったよ」 「何処から?」 「国立中央研究所」 「捨てちまえ」 「本だよ? 多分、クロちゃんの論文が乗ってるやつ」 振り向かずに翔子は言う。 溜息をついて、クロムはテーブルの上に置かれていた小包に手を伸ばした。 封を切り、蓋を開ける。 中身は翔子の言ったとおり、論文集だった。 「誰からだ?」 「ソォファ・ダィオキサイドさんから」 久しぶりに聞いた元同僚の名前に、クロムはふんと鼻を鳴らした。 クロムは『科学者』である。 遥か昔、『魔女』達によって葬られた『科学』、それを施行するものを『科学者』と呼ぶのだ。 その中でも、クロムは物質の変化を司る『化学』を得意とする。 彼は元国立中央研究所の所員だったが、二年ほど前に独立した。 そして今、翔子と共に海の傍に住んでいる。 自分の人生全てをかけてでも行うべき研究のために。 「ねぇクロちゃん、今回の論文、何書いたの?」 「四酸化ニ窒素とニ酸化窒素の化学平衡について」 「ごめん、全然わかんない」 あはは、と翔子は笑う。 溜息を一つ漏らして、クロムは空中に指を伸ばした。 それを動かすと、光の奇跡が後を追う。 クロムは科学を施行した。 「四酸化ニ窒素とニ酸化窒素は互いの効果を相殺しあってる。 けれども温度が高くなれば赤褐色のニ酸化窒素が多くなり、 温度が低くなれば無職の四酸化ニ窒素が多くなる、ということを書いたんだ」 光の奇跡は四酸化ニ窒素と二酸化窒素の化学式を描き、双方を二つの矢印で結んだ。 四酸化ニ窒素からニ酸化窒素へ伸びる矢印と、その逆と。 「その、シサンカニチッソとニサンカチッソは、温度で量が変わるってこと?」 「簡単に言えば、そうだな」 あはは、やっぱり全然分からないやと言いながら、作り終えたサンドイッチをテーブルの上に置く。 それを見たクロムは年相応に顔をほころばせ、椅子に座った。 まず真っ先に手を伸ばしたのは、ストロベリージャムのサンドイッチ。 「クロちゃんは凄いねぇ。あたしが全然わかんないこと、一杯知ってるもんねぇ」 「科学者だからな」 「史上最年少の、でしょ」 「年齢は関係が無い。他が無能なだけだ」 「あはははは」 クロムの対面に座り、翔子は笑う。 それからすっと、視線を窓の向こうの海に走らせた。 空の色を移し、海は青い。 かつては母と呼ばれたそれは、今では死の象徴だ。 粘り気のある液体が、見渡す限り続いている。 ぼこぼこと沸騰する、熱い海。 そこに放り込まれたものは、ゆっくり溶けて行くという。 かつて『魔女狩り』で殺された『魔女』達の怨念が、海をそうしたのだという。 クロムは、それを元の『母なる海』に戻す研究をしているのだ。 翔子の視線に気付いたのか、クロムは口にサンドイッチを頬張りながら呟く。 「あの海の仕組みは分かってるんだ」 「どんな?」 「主成分が熱濃硫酸で、全てのものを溶かすって言ってるけど実はそうじゃないってこと。 例えば……銅を海に沈めれば二酸化硫黄が発生するけど、 アルミニウムなんかは不導体になって溶けない」 「?」 「つまり、言い伝えの半分も真実じゃないってこと」 ふぅ、と溜息をついて、クロムはブルベリージャムのサンドイッチに手を伸ばした。 多分、翔子は何を言っているのか理解できていないだろう。 『科学者』とはそういうものだと、クロムは知っていた。 科学の失われた世界で、それを知らないものに説明することは難しい。 結局理解されないことが殆どだ。 クロムの研究は、同僚の『科学者』連中でさえも匙を投げた。 「……分からないなら、分からないままでいい」 「あはは、ごめん」 「謝らなくていい」 クロムとしては、翔子に話を聞いてもらえるだけでも満足だった。 必死に理解しようとし、自分の話に耳を傾ける。 それだけでどれだけ救われたことか。 そう思いながら、クロムはオレンジジャムのサンドイッチを頬張った。 やっぱり美味しかった。 |
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あとがき。 書いてて結構楽しかったんですが読んでみてどうなんでしょう。 高校一年生程度の化学の知識で書きました。 |
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