足元に擦り寄ってきた、その猫は。
 しなやかな体の代わりに硬い触感のそれを僕の足に擦り付けてきた。

<オレンジ色の猫>

 すぅ、と音も無く近寄ってきたそれは、猫。
 オレンジ色の体毛と、緑色の目を持った猫だった。
 猫に違いないはずなのに、僕にはそれが違和感の塊のように感じた。
 何処がおかしい、と訊ねられれば答えられない。
 ただ、おかしかった。
 けれども動物の姿を見るのは久しぶりだった。
「どうしたの?」
 しゃがみ込み、その喉に手を伸ばす。
 猫は鳴かず、避けもしない。
 ただだまって、僕の顔を見上げるだけだった。
 喉の撫でても、ごろごろという音は聞こえてこない。
 代わりに、毛の向こうの固い感触が違和感の正体だと気付いた。
 そもそも、この建物の中に――猫がいるわけがないのだ。
 帝国中央研究所。
 軍一色に染まったこの国の、その主な原因。
「ドクトル・ハラルト・フォンセカ」
 笑いを含んだ声が、僕の名前を呼んだ。
 こんな風に誰かをフルネームで呼ぶ人間を、僕は一人しか知らない。
「ドクトル・ハルトヴィック……?」
「ここには慣れた?」
 もう二週間になるんだっけか、と彼女は――僕の上司である、カエデ・ハルトヴィックは言う。
 女性でありながら、この帝国中央研究所の重役を務める才女。
 僕よりも若くみえるのに、実は僕よりも年上だとは信じられない。
「なんとか……」
「皆期待してるよ、若手はここじゃ珍しいからね。二十前だっけ?」
「はい、十八です」
「若いね」
 いいことだよ、とドクトル・ハルトヴィクは笑う。
 彼女の笑みは、いつも片方だけ吊り上がっている。
 それが嘲笑のように思えるのは――僕だけなんだろうか。
「……貴方も、十分若いと思いますけど」
「私はもう年だよ。なかなか研究がうまくいかないもの」
「研究が上手くいかないと、年なんですか?」
「……時間は、残酷だからね。年を取れば取るほど、自分の信念に凝り固まって、自滅を招くのさ」
 そんなものだろうか。
 よく分からなくて首を傾げれば、オレンジ色の猫も首を傾げた。
「ねぇ、君は」
「はい」
「これ、なんだと思う」
 彼女が差したのは、僕を見上げる『猫』。
 猫です、と答えれば、彼女はまた笑った。
 更に笑みを深くして、嘲りを深くして。
 誰を嘲っているのかは――分からなかった。
「これ、ね」
「はい」
「研究の前座で作ってみたんだけど、上手く行かなくて」
「ドクトルの、研究?」
 確か、彼女は、全く新しい『兵器』を作ることに従事していたはずだ。
 下っ端の、最近入ったばかりの僕には詳しいことは知らされてないが
 ――会話を窺い聞くだけでも、かなり高等な研究だということは、分かる。
 それが、この『猫』とどういう関係があるのだろうか。
 疑問が顔に出ていたのか、彼女は『猫』の喉元に指を伸ばす。
 冷たい指先が僕のそれに触れて、思わず手をひきかけた。
「そう。何を作ってるか、知ってる?」
「いいえ」
「はは、素直なのもいいことだね。詳しくはいえないけど、『ドッペルゲンガーのようなモノ』、かな」
「ドッペルゲンガー、ですか」
「意味は好きにとっていいよ。それで、さっき、君はこれを『猫』だと言った」
 オレンジ色の猫を抱き上げて、彼女はそれを僕に抱かせる。
 そこには温かさもしなやかさも、微塵も存在していなかった。
 硬質な、冷たい猫。
 見上げてくる緑色の瞳は――よく見れば、色硝子だった。
「え……?」
「気付いた? それ、機械なんだよ」
 彼女の言葉が信じられなくて、僕はただ彼女を見つめた。
 機械というのは、大きな、自動車のようなものを指すんじゃないのだろうか。
 こんな小型の、どう考えたって複雑な動きをする物が。
「私も、君も、こういうのを専攻しているからね」
「……つくれる、んですか」
「作れるよ。現に存在している」
「でも」
「……何?」
「こんなの……僕は、見たこと、ありませんが」
「そりゃそうだ。『軍機密』だもの。けれどもね――君も、もうすぐそれを知ることになる」
 そう言って、彼女は目を伏せて笑う。 
 今まで見たことも無い嘲笑に、ぞくりと背中があわ立った。
「君は、さっき、それを『猫』だと言った。見掛けは確かに猫だ。
 けれども鳴けないし、数種類の行動しか取れない。完全な失敗作だ」
 これを失敗作という、彼女の神経が信じられない。
 これだけでも十分、世間は沸きあがるのに。

 彼女はこれ以上のものを望むというのか。

「……成功品は、どうなる……んですか?」
「決まってるさ。鳴いて、自由気ままに動く、本物によく似た偽者の『猫』」
「……それが、研究……ですか?」
「前座、だよ。私が作りたいのは、本物によく似た『兵器』さ」
 彼女が何を言いたいのか、理解できない。
 本能が、彼女を危険だと告げている。
 それでも僕は。
「本物によく似た、動いて喋る『殺人兵器』。戦況が大きく変わると、そう思わないかい?」
 彼女に、陶酔にもにた感情を、抱いていた。
「趣味が生活に繋がるんだ。これ以上の至福はないよ。
 それはね、『ドッペルゲンガー』なんだよ。出会った人間は必ず死ぬ。そういうモノだ。
 幸い、もう少し改良を加えれば何とかなりそうだ。現に君はそれを『猫』だと思ったから」
 もしこの人の下で、この人の手助けが出来るなら。
 そう思うと――胸が、高鳴る。
「……素敵、ですね」
 言えば、彼女はその黒い目を真ん丸く見開いた。
 初めて見る表情だった。
 それから――彼女は笑う。
「っははは、素敵!? 私が! ……君は面白いことを言うね」
 笑って、笑って、立ち上がり、白衣を翻して。
 細められた目の色は、暗すぎて名前を付けられない。
「それは、あげる」
 よく通る声が、廊下中に反響する。
「……それを持って、ここまで置いで」
 彼女が向かった先は、この研究所の中でも、数人しか入ることを許されていない『研究室』。
 腕の中の『猫』と僕は、ただただ、彼女の背中を見送った。

 それが、彼女が僕だけにくれた初めての言葉。
 それが、彼女が僕だけにくれた初めてのモノ。

           あとがき。
            三毛、ではなくオレンジ色、の猫。
            青と黄金のオッドアイは、白い毛の猫。
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