儚いその時間を終えて
 空になった躯を抱いて
 天に向かった君に、想いを馳せる。

<蝉の死骸>

 そこは薄い闇と暗い闇しかない空間だった。
 ぼんやり浮かぶ月は赤く、けれども光は青白い。
 そんな歪な世界を、銀髪の青年が歩いていく。
 ひらひら揺れる黒いマントの下は黒いスーツ。
 それに彩られる肌は病的に白く、銀髪の合間から除く双眸の色は青い。
 十字架しかない丘を、彼は優雅に歩いていた。
 静寂の世界。
 佳人は、その空間に相応しい者に思えた。
「ご主人さまぁ!」
 静寂を打ち破ったのは、幼い声だった。
 こちらの匂いを嗅ぎ取ったのか、丘の麓から走ってくるのは幼い子供だった。
 けれども手首から先は漆黒の毛に包まれ、ぱたぱたと尻尾が濡れている。
 人狼(ヴェアウォルフ)である少年の突撃に、少しだけ彼はよろめいた。
「お帰りなさいませ!」
「……ただいま、アトミラール」
 子供の瞳と同じ、漆黒の髪の毛を青年は撫でる。
 気持ち良さそうに喉を鳴らす子供。
 人狼の里から預けられた――数少ない次世代の担い手。
「変わったことは無かったか?」
「はいっ。何も、ありませんでした! あ!」
「何か?」
「キララさんが、また変なことを初めましたぁ」
 上目遣いに見上げてくるアトミラールに、青年ははぁと溜息を付く。
 そのまま、少しだけ足取りを速めて丘を降りる。
 ぱたぱたと尻尾を振りながら、アトミラールはその背中を追う。
 丘の麓には、白い洋館が建っている。
 それが青年の――ヴィンセント・フォン・ハインリヒ伯爵の住む館だった。
 古びた大きな扉を開け、かつかつと足音を慣らしながら歩を進めていく。
 そうして一番奥にあった扉を蹴り開ければ、乾いた音が家中に響いた。
「……永輝(きらら)」
「ヴィー、お帰りぃ」
 ゲストルームの真ん中、革張りのソファーに腰掛けている人間がひらひらと手を振る。
 振り返った彼の髪は黒く、また眼鏡の奥の双眸は血の色をそのまま映している。
「主たる俺の居ない間に、何をしようとしてたんだ?」
「いや、何も疚(やま)しい事は考えてませんよ? たぁだちょっと、ねぇ」
 にへら、と笑う青年――永輝に、ヴィンセントはあからさまに溜息を付いた。
 そうして、永輝の隣に座る。
 その健康的な肌の色と並ぶと、ヴィンセントは余計に白く見えるのだ。
 そして足元にアトミラールが座り込んで、いつもの構図となった。
「ちょっと、何だ」
「いやぁ? 別に伯爵様に申し上げるようなことじゃありませんから」
「……嫌味か、それは?」
「分かるなら大したモンだよ。アトミラールは分かんないもん、ねー」
「ねー」
 小首を傾げる人間と人狼に、吸血鬼である青年は眉間を押さえる。
 彼はこの世界――闇の世界で唯一の『人間』だ。
 少し前まではもう少し居たのだが、皆死んでしまった。
 否、死んでいるのは『人間』だけではないと、ヴィンセントは思う。
 先月は南のジャック・オー・ランタンの集落が飢えて死んだ。
 今日も東のウィル・オ・ウィスプの集落が消えていた。
 この世界は、飢餓に犯されている。
「お疲れだね、ヴィー」
 例の一件? と赤が訊ねてくるので、ヴィンセントは無言で頷いた。
 永輝は眼鏡を外し、ぐっと喉をそらせる。
 視線をそらして、極力そちらの方を見ないようにした。
「ああ……世界が閉じて、もう五年近くなるからな」
「んー、そんなになるんだ。俺がこっちに来てから」
「……ああ、そうだな。老眼鏡が必要なほどに老ける訳だ」
「違うよ、これは」
 言いかけた言葉はそこから続くことは無かった。
 それでも、ヴィンセントはその理由を知っている。
 ――栄養失調による視力の低下。
「アトミラールに食事をやって、くれたか?」
「うん。待ってればよかった?」
「いや……それでいい」
 この世界の住人は、各々で必要とする食事が違う。
 食べなくても生きていける吸血鬼(ヴィンセント)や、物理的な食事で賄える人狼(アトミラール)はまだしも
 ――『人間』の恐怖を糧に生きている種族は、徐々に飢えて死んでいるのだ。
 更に、蓄えていた食事も底を突こうとしている。
 このまま『人間』の世界へと繋がらなければ、程なくしてこの世界は消えうせるだろう。
「ヴィーは? 腹減ってない?」
「減ってない」
「嘘付けー、そう言って何百年、食べて無いの?」
「長すぎて数える気も失せた」
 もう一度永輝は「嘘吐きー」と言う。
 それを真似して、アトミラールも「うそつきー」と呟いた。
 助けを求めて、視線をテーブルの上に走らせる。
 そこには何枚もの紙と、青いペンで書かれた図面があった。
 扉のように見えるそれを、摘み上げる。
「ヴィー、見てもいいけど順番変えちゃ駄目よ? 俺、アトミラール寝かしつけてくるから」
「ん」
 生返事を返しながら、その図面に見入る。
 そうしている間に扉が開き、閉じて、もう一度開いた。
 それほどの時間を、ヴィンセントは図面を眺めることに費やした。
「ヴィー」
 名前を呼ばれるまで気付かないほどに、集中して。
「……永輝、これは」
「『扉』の、図面。まだ設計段階だけどね」
「あちらへの……?」
「そう」
 ソファーに腰掛けた人間の青年は、にぃと自信満々の笑みを浮かべた。
「まぁ、まだ構成段階ではあるけどね。これが完成すれば、この世界は永らえられる」
「……永輝」
「アンタがそんな顔しなくてもよくなるのさ、ヴィー」
 そう言って、永輝はヴィンセントの頭をぐちゃぐちゃにかきまぜる。
 俺の方が年上なのにな、と、小さく呟きながらも、彼はそれに甘んじた。
 
 
 長い時をかけて、その扉は完成した。
 その間に、永輝は更に痩せた。
 そしてヴィンセントもまた――最近では眩暈を感じるようになっていた。
 百年単位での絶食が、徐々に体を蝕んできたのだ。
 でも、とヴィンセントは思う。
 これでこの世界が救える――と。
「じゃあ、ヴィー、今からこの扉の開け方を教えるからな」
「ああ」
 永輝はにぃと笑う。
 そうして首にかけていた十字架を外し、ぼそぼそと何かを呟いた。
 言葉に呼応するように、十字架は子供ほどに大きくなる。
「これが、鍵。ヴィーには無条件で反応するように作ってあるから」
「……俺、に? 何故」
「凄く酷なことかもしれないけれど――この扉の守人は、ヴィーとアトミラールが適任だと思ったから」
「何故?」
「んとね。あちら側は、もうこっちの世界のことなんて殆ど忘れかけてる。
 闇の眷属が日夜闊歩する時代は、もう終わったんだ」
「知っている。だから、俺達は今飢えて」
「そう。けど、闇の眷属が闊歩してもおかしくない日が一日だけあるんだよ。
 万聖祭の前の日の夜――ハロウィンには、ヴィー達闇の眷属が闊歩しても」
 大丈夫、と永輝は笑った。
「じゃあ、扉は一年に一度だけ開く――いや、開いちゃいけない訳だな」
「そう」
 永輝は笑う。
 よく笑うな、とヴィンセントは思った。
 その笑顔に、影がちらついているとも。
「そして、今日はハロウィンだ。この日に間に合わせるのに、かなり急いだよ」
「ならば、早いところ」
「ヴィー」
 口に人差し指を当てて、永輝は目を細める。
「鍵はこの十字架だけじゃない。血が必要なんだ」
「……血?」
「そう。守人はその『鍵』も探さなきゃならない。闇の眷属を見ることが出来る人間の血を」
 両手で十字架を持って。
「扉にかければ、扉は開く」
 それを、永輝は腹部に突き刺す。
 アトミラールが喉で悲鳴を上げた。
 ヴィンセントの頬に、扉に、赤が飛び散った。
 ぎぃ……と重苦しい音が響き、風が吹き込む。
 こちらに向けて開いた扉の向こうには、最早見ることも叶わないと諦めた――『人間』の世界があった。
 何処からとも無く咆哮があがり、幾多もの同胞が扉から向こうへと出て行く。
 そんなものを背景に、永輝の体は崩れ落ちた。
 ぐしゃり、と生々しい音が響く。
「……きら、ら?」
「キララさん!!」
 ヴィンセントよりも先に、アトミラールが永輝に駆け寄る。
 赤の中に沈んだ体に手を伸ばし、その手を染めた赤にビクリと体を強張らせた。
 その色に、ごくりと喉が鳴った。
「キララさんっ、なんでっ……なんで!?」
 アトミラールはその体を地に縫い止めている十字架を、一気に引き抜く。
 それにあわせて、永輝は血泡を吹いた。
「……アトミ、ラール」
「っ、なに?」
「この匂いと、味を、覚えて」
 幼い人狼の口内に、血に染まった指を差し入れる。
 ぺろりと舐めあがれば、アトミラールは眉根を寄せた。
「探しておいで。出来るよね……?」
「う、ん」
「こうしなきゃいけなかったんだよ。だから、平気」
 だからお行き、と永輝は言った。
 涙目のアトミラールは頷き――扉の向こうへと走り出す。
 そうして、闇の世界にはヴィンセントと永輝だけが残された。
 永輝の呼吸音は耳障りなほどにか細く、彼が長くないことが見て取れた。
 焦点の合わない赤でヴィンセントを見、永輝は――やはり、笑った。
「ヴィー、」
「……何をしているんだ、馬鹿者」
 口から出たのは、震えたそんな言葉だった。
「誰が、お前に、そんなことをしろと言った」
「言って無いさ……アトミラールに、うぐ……言ったけど、こうするしか、なかった」
「喋るな永輝!」
 横たわる体を抱き上げて、溢れる血を止めようと傷口を押さえる。
 白い指がゆるゆると赤く染まり、その合間から桃色が見えた。
「もともと、闇の眷族の存在、だって……見える、俺達が、伝えた、からでさ……
 なぁ、ヴィー、頼むよ、なぁ、この世界、消さないでくれよ」
「何故……!? お前は、人間だろう?」
「……俺は、お前達が好きだよ。人じゃない、存在だけど、存在してて……
 お前達がいるから、『闇』の説明が出来んだよ……消えちゃ、駄目なんだ」
「だからって……!!」
「……ぁ……ぃ、ヴィー、鍵は、血だから……がはっ……躊躇っちゃ、駄目、だ」
「……もう喋るな……!」
「ヴィー、ヴィー頼むよ、お前にしか頼めないんだよ……すっげぇ我侭、ゴメン、でも」
「分かったから……!」
 冷たくなりつつある体を、強く抱きしめる。
 そうしても血液が止まらないのは分かっていたが、そうでもしなければやりきれなかった。
「ヴィー」
「喋るなとあれほど……!」
「……食って、いいよ」
「え……?」
「だからさ、もう、絶食、やめて、いいぜ?」
 伸ばされた指についていた赤が、頬に線を描く。
 その匂いに、どくりと心臓が高くなった。
 口内が潤う。
「餌、目の前に転がってるんだから」
「……そんな、友人を」
「……だから、だよ……っは、俺を、友人だって、言ったのは、お前が、初めて、だった……からっ……
 死ぬなよ……約束しろよ……世界を、守れよ……!」
 眩暈がするほどの血の匂い。
 鮮やかな赤。
 血の気を失った首筋につっと舌を這わせる。
 人間が、笑う気配がした。
 その首筋に、口を寄せて――
 つぷり。

 ヴィンセントは目を開ける。
 否、今までも開けていたのだが――見ては、いなかった。
 自分が抱きしめているそれを、見下ろす。
 落ち窪んだ目。
 満ちた腹。
 かさかさに乾き、随分と軽くなった体。
 黒い髪は冗談のようにさっきのままで。
「っ……ははっ……永輝、お前……はは、老けたな、はは……ははは」
 吸血鬼の青年は、笑う。
 微笑から哄笑に変化し――最終的に、それは絶叫にへと変わった。
 逝ってしまった友を悼む、慟哭に。
 友に手をかけた自分を責める、絶叫に。

           あとがき。
            地面に転がった蝉の死骸は、とても乾燥していて。
            やがて蟻の餌になるのです。
BACK