ゆらゆら揺らぐ世界の色は透き通っていて、
 揺れる頭の中、硝子の牢獄だとぼんやり思った。

<ベネチアングラス>

 宮廷内には敵が多い。
 それは何時の時代にも付いて回る問題で、どうしようもないものなのだとレナードは知っていた。
(……でも、これはないかなぁ)
 苦笑気味に辺りを見回す。
 目に映る人間の、一体どれほどがこちらの『味方』だろうか。
 こちらをぎらぎらとした目で睨み付けている者。
 どういう方法でこちらに取り入ろうとしているのか、そればかりを考えている者。
 稀にだが、短剣を忍ばせている者もいる。
 ――恐らくは、二割もいまい。
(それだけ、摂政閣下の権力が強い……ってことだけど)
 代替わりしたばかりで、現王の支持者が少ない。
 それが十代半ばの少年であれば尚更だ。
 宮廷内では今、前王の弟――現摂政を支持する者たちの数が圧倒的に多かった。
 それでもクーデターが起きないのは、偏にレナードのお陰である。
 レナードはロエヴェ王国を象徴する、ロエヴトという獅子だ。
 人語を解し、必要とあれば人の姿を取ることが出来る。
 そうして、コェイングディアティーレ――ロエヴェ王国の王――を守るのだ。
 謁見時や外交などでは、彼は巨大な獅子の姿――本来の姿に戻る。
 だが、城内ではそれでは不便な為に、人の姿を取っているのだ。
 腰まで伸びた金髪を揺らし、鼻歌を歌いながら歩いていくレナード。
 既に作った人間も、歌った人間も土の下にいるほど古い歌。
 長き時を生きているレナードだからこそ、知っている歌。
「おや、何処に行くのかな、レナード?」
 その歌を途切れさせたのは、不意に掛けられた声だった。
 漆黒の、黒目が全く無い瞳でレナードはそちらを見る。
 壁に背中を預けて居たのは、見慣れたアイゼイヤの従兄だった。
 王位継承権は、確か第四位。
 摂政である彼の叔父の二番目の息子――カルロス・レリウス・アルトゥール。
 そんなことを考えているうちに、彼は笑った。
 気に入らない笑い方だと、ぼんやり思った。
「……えっと、何か用かなカルロス様?
 ついでに、俺のことレナードって呼んでいいのは七十七代目コェイングディアティーレだけだよ」
「失礼。では何と呼べばいいのかな?」
 小馬鹿にしたような口調に、レナードは眉根を寄せる。
 何となくではあるが、気に入らなかった。
「……ロエヴェルト」
「『獅子の従者』? 随分だね」
「……用事は、俺に喧嘩を売ることだけかな? だったら俺はもう行くけど」
「アイゼイヤの所まで?」
「七十七代目コェイングディアティーレの所、まで。
 いくら従兄でも、彼のことを名前で呼ぶのはあまりに恐れ多いんじゃないの?」
 今第七十七代目コェイングディアティーレ――アイゼイヤは、
 王にのみ許された庭園で隣国の大使と会見中だ。
 本来であればレナードもその場にいるべきなのだが
 相手方が人払いを望んだために、こうして城内を歩いているのだ。
(剣も持ってなかったし、暗器も無かった。多分大丈夫だと思うけど)
 アイゼイヤの心配をしながら、レナードはカルロスに背中を向ける。
 それが、いけなかった。
 ずぶりと何かが、体内に沈み込む感覚。
 視線を落とせば、腹部から暗い色をした刃が映えていた。
 それに気付くと同時に――喉元から、焼けるほど熱い液体がせりあがってくる。
 耐え切れずにそれを吐き出し、蹲る。
 手を伸ばしそれを抜こうとするが、逆にそれは更に深く突き刺さってくる。
 首だけで後ろを見れば、カルロスが笑いながら足でナイフを押し込んでいるのが見えた。
「はは、案外無用心なんだね」
「何……して……」
「本当はアイゼイヤか、隣国の使者にでも使おうかと思ったんだけどね。
 ――先に貴方を消した方が、手っ取り早いって事に気付いて」
 どくどくと、耳元で煩いほどになる心臓の音。
 傷口から、徐々に徐々に広がっていく熱。
 体が熱くて、どうにかなってしまいそうだった。
「貴方はいつもアイゼイヤの傍にいる。貴方がいない時には、ロエヴトが傍にいる。
 食事の時は貴方がまず毒見をする。それじゃあ、中々あれを殺せないからね」
「……っ、は……やっぱ……アンタも、敵……」
 あつい。
 あつい。
 あつい。
 そんなことで占められていく脳の中から、レナードは必死に言葉を紡ぐ。
 必死にカルロスを睨みつけるが、その視界も次第に揺れ始める。
 ゆらゆらゆらゆら、揺れる世界。
 色はあるのに不透明で、まるで硝子のようだと思った。
 あつい。
 あつい。
 あつい。
 こいつはてきだ。
 ころしてしまえ。
(やばいっ――)
 思考が徐々に、蕩けていく。
 脳裏に上がるのは本能が告げる衝動のみで、それがレナードを恐怖に突き落とす。
 最も怖いのは、理性を無くすこと。
 『ロエヴト』たることを放棄して、ただの獣に成り下がること。
 血を吐きながら、そのことに怖気を感じた。
 あつい。
 あつい。
 あつい。
 いやだ。
 あつい。
 あつい。
 あつい。
 いやだ。
 あつい。
 あつい。
 あつい。
 ころす。
 ころしてやる。
 ころして、
「――」
 やる。
 告げられた言葉は、最早耳に届かなかった。


 ふっと、意識が浮上する。
 辺りを見回せば、ぼやけながらも庭園であることがわかる。
(あ、れ……)
 なんで俺は此処にいるんだっけ、と。
 そんなことを考えて――レナードは目を見開いた。
 両手に、腕に、べったりと付着した赤。
 ぱっくりと開いた傷口。
 体は相変わらず熱を持っていて、気を抜けばまた意識が飛んでしまいそうだった。
「レナード?」
 声を掛けられ、振り返る。
 暗い色の髪と、同色の双眸。
 彼が認めた、現コェイングディアティーレ。
 それに真っ直ぐ見つめられて――記憶が、フラッシュバックした。
 カルロスに背中を刺されたこと。
 熱くて熱くて死にそうだったこと。
 彼の嘲笑がいやに耳についたこと。
 それから――
「ひっ、ぁ、ぁ」
(俺は、どうした? どうした? なにをした? あの後、俺は、なにをした?
 なにをなにをなにをなにをなにをなにをなにをなにをなにをなにをなにをなにを)
「っ――ぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!」
 レナードの絶叫に、近くの木々から鳥が飛び立った。
 両手の赤は、どうみても血液だった。
 多分、きっと、俺は。
 それを考えて、恐怖にレナードは叫び続けた。
 頭を抱え、肩を抱き、肺の空気全てを使って。
「レナード? どうしたんだ」
「やぁぁぁああああっ、あ、あ、っ……あああああああああああっ」
 じり、と後ずさるが、それよりもアイゼイヤが近付いてくる方が早かった。 
 暖かい掌が、肩に置かれる。
 その暖かさに、レナードは体を強張らせる。
「レナード、レナード、しっかりしろ」
「やっ……くるな、くるなくるなくるなっ……俺、今、カルロス、こっ……
 あつくて、何も、考えられなくて、それでっ……気付いたら、ここにいて、それで、それでっ」
 アイゼイヤは必死に状況を理解しようと、断片的に吐かれる言葉に耳を傾ける。
 ナイフが刺さったままの背中。
 腹部から覗いている刃先は黒く――恐らく、毒が塗られているのだろう。
 カルロスという、従兄の名前。
 そして――レナードのこの脅え様。
 以前、知性を失うのが怖いと言っていたことを、アイゼイヤは思い出す。
 知性こそがロエヴトと、他の獣を隔てる最たるものであるらしい。
 だから、それを失いたくないと、自分はロエヴトで居たいのだと。
 そう言っていたのを、思い出す。
「レナード」
「やだっ……お、お、俺、あ、あ、あっ……アイゼイヤ、殺したく、無いっ……
 アイゼイヤ、まで、殺したくなっ……殺したくない、ないっ」
 まずは彼を落ち着けるべきかと、アイゼイヤはざっと辺りを見回した。
 王の庭園に生えている草は、殆どが薬草だ。
 記憶にある毒消しの草を引き抜き、口に含む。
 数回噛み、柔らかくしてから――それを、レナードに口移しで食べさせる。
 驚いたように、黒い瞳が見開かれる。
「レナード、落ち着いて。ゆっくりそれを噛むんだ。ゆっくり、ゆっくり。
 これは毒消し草。効果は、私が小さい時から食べてるから確認済みだ」
 数秒の間のあと、こくりと頷くレナード。
 顎が動くのを確認してから、アイゼイヤはナイフに手を伸ばした。
 一気にそれを引き抜き、毒消し草を傷口に押し当てる。
 片手でそれを押さえながら、もう片方の手で背中を擦る。
 ごくり、と嚥下する音が聞こえた。
「……落ち着いた?」
 返答は無く、ただレナードは頷くだけだ。
「何があったのか、推量だけど……あと、辛かったら言って欲しい。そこでやめる。
 カルロスに刺されたんだろう? それで、ナイフには毒が塗ってあった」
「そう……それで、俺、熱くて……そっから、覚えてないんだよ……
 気付いたら、両手、真っ赤で…………殺したかも、しれない」
 両手を伸ばし、レナードはアイゼイヤに縋りつく。
 かたかたと震える体は、彼が巨大な獅子であるとは到底思えない。
「人を殺すのなんて……怖くない……けど、俺、きっと……
 あの時は、ただのっ……ただの獣だったっ……」
「レナード……落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」
「やだ、やだよ……俺、俺、おれっ……おれっ……」
「レナードはロエヴトだ。現に今、私と話してる。僕を抱きしめている。
 獣は、そんなことしないだろう?」
 そこでようやく、レナードはアイゼイヤを見上げた。
 アイゼイヤは子供をあやすように、彼の背中を撫でていく。
 かたかたと鳴っていた歯の音が、徐々に聞こえなくなっていった。
 時々、思い出したようにレナードは『そのこと』に脅える。
 きっとそれは、自分が預かり知らぬ場所での恐怖なのだろう。
 その度に、そうアイゼイヤは思うのだ。
 何処まで行っても、逃れることはできない。
 常に付きまとう、恐怖。
 ――彼はそれに囚われている。
「……従兄がもし死んでいたとしても、それは自業自得だ。
 生きていたとしても、国家反逆罪に問われる。国の象徴である、ロエヴトに手を出したのだから。
 だから、レナードが悔やむことじゃない」
 必死に紡ぐ言葉は、どれだけ効力があるのだろう。
 そんなことを考えながら、アイゼイヤは必死にレナードを抱きしめる。
 不透明な牢獄から、少しでも彼が這い出せるように。

           あとがき。
            透けて見えるけれども、明確には見えない。
            だから囚われれば、一層不便じゃないかと思います。
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