ゆらゆら、ゆらゆら揺れる水面。

<喫水線>

 闇の中に、彼岸花がぽつぽつと咲いていた。
 時期の終わりかけたそれを眺めながら、彼は水音に耳を傾けていた。
 ちゃぷちゃぷと、白波が上がる。
 彼は船に体を横たえ、そうしていた。
 船には奇妙なことに、等間隔で十本の線が引かれていた。
 水面は凪いでいるというのに、船だけが奇妙に上下していた。
 一番上の線まで沈んだかと思えば、一番下の線ぎりぎりまで浮かび上がる。
 舳先に提げた鬼火(ほおづき)の提灯がゆらゆら揺れる。
 彼は、ぼんやりそれを眺めていた。
 その耳に、歌声が響く。
「船に追風(おいて)、汝を送ろう
 此岸(しがん)で揺れるは曼珠沙華
 彼岸(ひがん)に見えるは賽の河原」
 老人と子供が同居した、憐憫の強い声。
 決して高らかに歌っている訳ではないのに、何故だかはっきりと耳に届く歌。
 彼はゆっくり体を起こした。
 それと同時に、船が揺れた。
「鬼火(ほおづき)導べに汝を送ろう
 此岸の想いを 持ちて行きませ
 彼岸に抱えて 川を行きませ」
 歌が、不意に止んだ。
 歌声の主――茶髪に白い狐面、黒地に赤で葛の刺繍の入った着物の人影がすぐ傍にあった。
 それは、もう一人を連れていた。
 彼の腰ほどまでしかない、小さな子供だった。
 首に残った、紫色の痣が痛々しかった。
「久しぶり、狐面の」
「ああ……船頭殿」
「……運べばいいのかィ?」
「ああ」
 狐面の向こうの、赤い双眸が細められた。
(まったく、毎度毎度のことだけどさァ)
 悲しむくらいならやめればいいのに、と彼は思う。
 けれども狐面がそれをやめれないことも、彼は知っているのだ。
「了解。さてお嬢さん、お手をどうぞ」
 子供は小さく首を傾げながら、彼が伸ばした手を取る。
 そうして裸の右足を、船に乗せる。
 その途端、大きく船が沈んだ。
 子供は驚いたような顔をして、びくりを後ずさる。
 狐面はますます悲しそうな顔をする。
(ああ、やっぱり)
 そんなことを思いながら、彼は「大丈夫」と笑ってみせた。
 子供は恐る恐る、それでも今度は船に乗った。
 きし、と音を立てて船が沈む。
 見れば、船の側面に等間隔に引かれた線、その一番上まで水面が来ていた。
 子供は心配そうに、それを見ている。
「大丈夫」
 もう一度そう呟いて、彼は立ち上がった。
 船に立てかけてあった櫂を取り、とっと岸を押す。
 彼は、岸辺に立っている狐面を見る。
 今にも泣き出しそうな顔で、赤がこちらを見ている。
(あーぁ)
 くすくすと喉で笑いながら、彼は櫂を漕ぐ。
 鬼火の灯りが、ゆるやかに暗闇を照らしていく。
 そうして彼は、口を開いた。
「船に追風(おいて)、汝を送ろう
 此岸(しがん)で揺れるは曼珠沙華
 彼岸(ひがん)に見えるは賽の河原
 鬼火(ほおづき)導べに汝を送ろう
 此岸の想いを 持ちて行きませ
 彼岸に抱えて 川を行きませ」
 朗々と、暗闇に響き渡る歌声。
 それには憐憫も何も含まれていない。
 子供は、そんな彼を見上げている。
 それから、ようやく笑った。
 半分泣いていて、もう半分はそれでも笑っていた。
 
 きぃ、きぃと音を立てて、鬼火の光が近付いてくる。
 子供を送り届けてきたのか、それに乗っているのは見慣れた船頭だけだった。
「ただいま。狐面の」
「……あの、子供は」
「ちゃんと冥府庁まで送り届けてきたさ」
 そういい、船頭は船の上に腰を降ろす。
 船は一番上に引かれた線まで沈んだ。
 面倒だよな、境界って。
 そう呟けば、狐面――葛は頭を振った。
「……吾等は、こうすることでしか存在できぬ。『境界』であるが故にな」
「俺が『船頭』であるのと同じように、か」
 言葉と共に水面が揺らぎ、今度は一番下に引かれた線まで浮かぶ。
 それを見、葛はふぅと溜息を付いた。
 闇の中ぼんやりと浮き上がる、狐面を外す。
 茶色い髪の合間から、赤がじっと船頭を見る。
「あの子供は」
「間違いなく賽の河原行きさ。親より早く死んだだろう?」
 船頭は口元をにぃと歪め、笑った。
 肩を震わせるたび、船は上下に揺れた。
 それに合わせて、闇に解けそうな程黒い髪が肩口で揺れた。
 葛は目を伏せる。
 それを見て、船頭はさらに笑った。
「渡し舟が一番上まで『沈んだ』んだ。長くこの仕事を続けていれば分かるさ」
「……親に、殺されたのだ」
「んー?」
「あの子供は……親に、首を絞められて殺されたのだ……そうだと、いうのに」
「覆らねェさ」
 はっと、葛が顔を上げた。
 葛よりも暗い赤が、暗鬱な笑みを浮かべていた。
「親より先に死ぬのは重罪だ。古今東西、変わる事無き事実だ。
 どのような事情があろうとも、な」
「……水仙殿……!」
「仕方ねぇだろう。冥土の法は――閻魔の法は絶対さね」
 それに、と船頭――水仙は続ける。
「殺した親も、『人』の法で裁かれるのだろう?」
「……それでも、どうにかならぬものか……? あの子供は、ずっと、脅えていたのだ。
 『おかあさんにおこられちゃうかな』と、ずっと、ずっと……」
「葛、何時まで『其』つもりなんだィ? もう軽く千年は越えてるだろう?
 あの子供はお前じゃねェし、親はお前の『親』じゃねェ。
 同情するだけ無駄なんだし、いい加減割り切ったらどうだィ?」
 その言葉に、葛は答えなかった。
 割り切れないものと、水仙は知っていた。
 だからこそ言葉を掛けるのだ。
「親が彼岸に渡ってくるまで、賽の河原で石を積む。鬼に崩される定めでも、ずっと。
 親が来たなら救われるんだ、いいじゃねェか」
 いいはずが無かろう。
 苦しそうな声は、水音にかき消された。
 上下する船。
「誰も彼も罪人で、罪人が罪人を裁くのだ。
 生まれてきたその日から、どっぷり罪に浸かって生きる。人も妖(あやし)もその中間も」
 にぃ、と船頭は、それはそれは楽しそうに笑った。
 ぐっと背伸びをすれば、一層深く船が沈む。
 船に描かれた喫水線が、罪の重さを現すことを葛は知っていた。
 軽い罪であれば、一番下の。
 想い罪であれば、一番上の。
 喫水線まで、船は沈む。
 だから葛は知っていた。
 目の前の船頭は重罪人で、同時にそうではないことを。
「そんな苦しそうな顔をしなさんな」
 葛の心情を知って知らずか、少し抑えた笑いで水仙は言う。
「そう遠からず、救われるだろうよ」
「何故、そう言い切れる」
「なァに、簡単なことさね」

「首に指が食い込む感覚を、苦しそうな嗚咽を、強張った体を覚えたまま生きているなら
 ――それは間違いなく狂人で、境界なんてとうに越えちまってるからさ」

 両手を見下ろし、笑いながら水仙は言う。
 だから彼は重罪人でそうではないのだと、葛は思った。
(だって彼は未だに覚えているのだから!)

           あとがき。
            リハビリ。同時にちょっと新しいことに挑戦。
            語尾を延ばす喋り方も好きですが、小さな「ィ」とかつけるのも好きです。
BACK